【目覚めの手帳(第1話)】タスマニアの羊

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――もし、GNP(国民総生産)をどこまでも増やすこと、すなわち経済の規模を成長させ続けることしか、資本主義経済のもとで各国の国民が幸福を得る手段がないとすれば、人類の未来は暗澹(あんたん)たるものになる。

最もうまく事が運んだ場合、1800年から1935年にかけて記録されたオーストラリア領タスマニア島の羊のように、島の容量の限界まで個体数が増えた後は、増減なくほぼ一定の固体数が維持されるようになる。人類にとって、タスマニア島は地球であり、羊の個体数は経済の規模、すなわち「人口×1人当りGNP」である。

しかし、このような経過は、地球人類の性向から判断すると、現実には起こりそうもない。現在の傾向が変わらなければ、その経過は、人間の経済活動によって、地球の環境容量が、その限界を越えた後も風船のようにギリギリまで膨らみ続け、ある日突然のカタストロフィ(大破局)を迎えるという形になるであろう。

人間は羊と違って、経済活動を通じて消費と排出を行い、適切な制御手段を持たないまま、その規模をどこまでも拡大しようとする。これは、地球の「寛容の限度」を試す企て、すなわち「地球への挑戦」である。

現実に、地球と地球人類は既に限界点を越えてしまった、という認識では科学者たちの 報告は一致している。すなわち、地球温暖化をもたらす「温室効果ガス」の主体である二酸化炭素の排出量は、森林や海洋など自然が吸収・処理できる限度を、すでに30年以上前に突破している。その結果、「大気中の濃度」が果てしなく増え続けて、地球の気候システムへの危険な影響の兆候が観測されつつある。

これから導かれる結論はきわめて明白である。すなわち、温室効果ガスの排出量を現在のレベルより大幅に削減し続けない限り、地球を安定化させることはできない。その削減の幅は、二酸化炭素では、最も少ない見積もりでも、50%以上である。

ところが、1992年の「地球サミツト(環境と開発に関する国連会議)」で実際に合意されたのは、2000年以降において温室効果ガスの排出量を1990年のレベルに「安定化」させることである。この排出量は、その時点までに把握された最大値であり、それを維持すれば足りるのなら、そもそもこの問題は起こらなかった

これは歴史に残る「虚構」であるが、よく言われるように、大勢の人を長期間、欺き続けることはできない。いわんや、地球の現実は、それとは無関係に進行する。各国政府は、 設定すべき目標を取り違えている。

いわゆる「バブル経済」崩壊後の日本の消費の状況は、この問題に一条の光を投げかけている。

鋭敏な経営者のなかには、これまでのように景気循環でそれを説明することの限界を感じ、何かが本質的に変わり始めていることに気づいている人が少なくない。

もし「経済システム」と「エコシステム(地球環境)」がそれぞれ独立した、互いに無関係な体系だとすれば、消費者がいま節約を心掛けるのは間違っている。GNPの約6割を占める個人消費が伸びなければ、経済は成長することができない。企業活動が縮んで、昇給もままにならない。雇用にも影響する。税収が落ちて、行政サービスが低下し、財政の実質赤字が拡大する。輸入が増えず、国際収支の黒字がますます膨らむ。

この「悪循環」から離脱するために、政府は、ひとつのことだけをやればよい。それは、 政府公報によって、「賢明でない」消費者の誤りを指摘する大々的なキャンペーンを張ることである。そして、清貧に走ってはいけない、ライフスタイルを元に戻さなければならない、と告げることである。

現実には、消費者としての個人の行動に、混乱があるとは思えない。前記の二つのシステムが不可分であり、表裏一体であることは、むずかしい説明はなくとも、毎日の生活のなかで実感しないわけにはいかない。人間の経済活動の規模と内容とが、今やそこまで拡大したのである。消費者は、この現実についての、それぞれの理解と判断にもとづいて行動しているだけである。

混乱があるのは、むしろ行政の方である。それは、日本だけではない。一方で、景気対策のため個人消費を活性化しなければならないと言い、他方で地球環境を守るためにライフスタイルを省エネ・省資源型に変えなければならないと言う。一人の人間がこれを矛盾なく受け入れ、具体的な行動に現わすことができるであろうか。

現実の世界では、すべてのものが連関し、ひとつの巨大な体系となっている。その一部だけを切り出して、うまく治めていくことは不可能に近い。人間が便宜的に区分けした学間体系や政治・経済・社会機構が、抜き難い「分離思考」を醸成してしまったが、それは現実世界のメカニズムまで変えるものではない。確かなことは、もはや「分離思考」ではやっていけない時代が到来したということである。

少し頭を冷やして世の中をみれば、そのような「連関」に気づいて「意識の変革」を遂げた人びとが、じわじわと増えつつあることが分かる。このような人びとが、社会の「変化する部分」の担い手であり、その最も影響力のある行為が、消費についての意思決定である。この動きは、ひとつの方向に進み続け、決して元へ戻ることはないであろう。これが、日本の「バブル経済」にかかったブレーキの原動力である。

これからは、個人が消費を通じて行う自己表現を、行政や企業の思惑で変えることは、ますます困難になるであろう。むしろ経済の規模と内容は、消費者としての個人の、自発的な意思の集積として規定されるようになるであろう。

これは、近代資本主義経済の歴史のなかで、革命的ともいえる変化である。消費水準が経済の外で決まり、これまでの、金融や財政主体の経済政策でコントロールすることができない「未到の世界」への突入、すなわち「シフト」である。それは、人びとの意識のレベルでの「シフト」すなわち「意識革命」の、直接的な反映でもある。

この傾向の延長から「新しい時代」に入っていくには、「分離思考の壁」を越えなければならない。現在の政治・経済・社会の混迷、矛盾、苦境の根源には「分離思考」がある。

混乱の「創出」の責任は、経済学者にもある。経済政策への提言などで、「地球の事情」を無視した主張が平然と行われている。それを忘れていない「フリ」をして、ついでに「言及」することはあっても、具体的な提案の中に生かされているわけではない。この間題は、これまでの経済理論が答を出せないテーマであり、経済のダイナミズムを拘束する要素であるから、避けて通るにこしたことはない、ということになる。

一方、科学者や環境問題に真剣に取り組んでいる人には、経済は厄介な代物に映る。とりあえず棚上げにして、専門分野の枠の中での主張にとどまる。

現実の世界は、「すべてはひとつ(ワンネス)」である。経済をその固有の世界で動かそうとしても、もはや意図するようには動かない。「分離思考」に別れを告げ、すべてを俎上(そじょう)に載せて、全く新しい視占から眺めてみなければ、正しい答は出てこない。

新しい視点は「連関の視点」である。「地球からの視点」ということもできる。そこに立てば、あらゆる「時代の課題」についての一貫した答を得ることができる。とりわけ「地球との共生」を図りながら、それぞれの地域に根差した豊かで快適な生活を実現し、雇用を維持し、国際貢献を果たしていく道が示される。それが、取りも直さず「新時代への処方筆」となる。

(〔01〕=『タスマニアの羊(1993年11月)春秋社』序章)

「奇蹟に対して心を開くことは、私に対してそうすること」と神は言われる(上)

今年の初めに創造主(神)より降ろされたメッセージに含まれる、表題の言葉とメッセージの内容に改めて強い印象を受けています。

このメッセージは次のように始まっており、「奇蹟」に関してはメッセージの結びで言及されています。

――親愛なる皆さん、

皆さんは、私から分かれて外に出て、永い旅を始めました。 そして自ら持つ神の意識を忘れてしまい、それから遠く離れた独自の体験をするようになりました。〔:以下同〕

ここでの「自ら持つ神の意識」とは、「神の分身」として創られ神に準じる能力を与えられていたこと、そして「独自の体験」とは、「惑星地球の3次元世界」での体験に身を投じている中で、本来の自分を忘れてしまい現在に至ったことを指しています。

――その意義は、それまでは不可能だった体験に身を曝(さら)すことによって、新たな世界が創られ、新たな「創造」が行われるようにしたことです。

無限であることが宇宙の特質で、皆さんは、有限の体験を通じて宇宙を豊かにします。 そして、このマトリックス(つまりこの世界)は、そのために造られた構造です。

絶えず変化し新奇な創造が行われることが宇宙の存在意義で、それが神の意図でもあるので、そのために創られた「惑星地球という宇宙の実験場」へ、私たち(の魂)は自ら志願してやって来たのです。 「宇宙を豊かに」することへの貢献のために、そして自己の「魂の学び」のために。

――今では皆さんの多くの方々にとって、これらの体験を実践することが充分に行われ、使い尽されました。 皆さんの記憶が回復することによって、人生が劇的に変わる時がやって来たのです。

しかし、今や「充分に行われ、使い尽されました」というのは、当初「このマトリックス」に埋め込まれた「実験素材」は充分に体験され、「実験は事実上終了した」と判定されています。 私たちが持つ善悪の判断基準を地球の現状に照らせば、とても「実験」が有意義に「終了した」ようには思えませんが、「創造主)」の視点は違うのでしょう。 それどころか、私たち地球人類が(本気になって)行ってきたことは、このメッセージの後段でも触れられているように「幻想世界でのゲーム」だったので、そのための「実験場(いま見る惑星地球の3次元世界)」そのものも、「更地」にされる時が近いようです。 したがって、元々「神の分身として創られた」という私たちの「記憶を回復」し、「人生が劇的に変わる時」に備える必要があると言われています。

―― 一部の方々にとって、それは一瞬の悟りですが、他の方々にとっては、各人の洞察力に応じて段階的に、このマトリックスから持ち上げられる具合になります。

ここでは、上のような認識には「個人差」があるのが実情なので、それに応じた適切な「移行措置」が採られることを明言されています。

――必要とされたことは「このゲーム」の本質を見抜くことで、あなたはその明察を得ます。 忘却を生きる境遇を脱して、思い出すべきです!

ここに「このゲーム」が出てきます。 そして「忘却を生きる境遇」からの脱出、つまり「惑星地球という宇宙の実験場」へ身を投じたことを契機に、自分の本質や地球へやって来た本旨を忘れてしまった状態からの脱出については、次のパラグラフで説明されています。

――どうか、これを知ってください: この世界でいま起こっていることのすべてが、あなたが思い出すのに役立ちます。 それは、本当の自分は何者で、実際には何をするために地球へやって来たのかということで、そこに各自の独自性があります。 この大変動が根本的なものであればあるほど、自分の人生の意味を探ろうとする願望は強くなります。

この疑問に対する答の手掛かりを拾い上げた人は誰でも、本当の人生への扉が開き始め、光への道に入ることができるでしょう。

この世界でいま起こっていることのすべて」とは、お気づきと思いますが、「現状の延長上には地球と人類の活路は開けていない」と思われる状況のことです。 それは、自然現象や政治・経済・社会など、あらゆる領域に及びます。 また「この大変動が根本的なもの」とは、「地上に根差す人類社会の運営」についての旧来の論理や方式やテクノロジーを総動員しても対処できない窮状を後にして、「新時代へ移行」が進んでいる全地球的な状況のことでしょう。

――あなた自身の完成によって、この地球での奉仕活動は完結します。それが、このところ起こっていることです。 自然の成り行きで「回復」が行われ、ほんの数か月前には未だ手の届かなかった意識の飛躍が起こって、人類の神性が明瞭に現れてきます。 「新たな人類」の広がりが「母なる地球」に恩恵をもたらし、人類は彼女の重荷ではなくなります。

「この地球での奉仕活動は完結します」は、前に出てきた「充分に行われ、使い尽されました」に対応しています。 「人類は彼女の重荷ではなくなります」――つまり人類がやってきたことは、在り来たりの手段では回復できないほどの「地球の重荷」になっているということです。

――これまで「舞台装置の背後」に隠されてきたものが、今や皆さんに明かされます。 良くも悪くも、それは明かされる必要があり、それによって各人が目覚めるか、または幻想の世界に留まり続けるかすることが出来るのです。

ここに「幻想の世界」が出てきます。つまり「造られた構造」である現在の「惑星地球」または「それと類似の世界」のことです。 「舞台装置」とは前出の「このマトリックス」のことで、そこでは「光とヤミの戦い」が中心軸になったことすら「造られた構造」で、人類の目覚めの為には「良くも悪くも、それは明かされる必要」があると言われています。 しかし「幻想の世界に留まり続ける」という選択もあるようです。現在の地球と似たような、別の「幻想の世界」つまり段階的に新世界へ移行させるための「臨時的ゲーム場」が用意されるのでしょうか。

――しかし、すでに目覚めている皆さんは、このレベルの人生体験を極めようとしています。つまり「創造」の中の次の高いレベルへ上昇するために、そこを離れようとしています。

「そこを離れようと」しているとは、「もう充分だ」という思い、つまり「汚濁(おじょく)と喧騒」にまみれた「このマトリックス」に、これ以上は付き合いたくないという意思のことでしょう。

これに続いて、「神への献身」が全てを左右することを次のように言われています。 その中では、「アセンション」という言葉も使われています。

〔本稿の()へ続く〕