そしてあなたの準備が整えば光が射してくるでしょう―サナンダ

このタイトルの意味は、メッセージの本文にある、次の言葉を受けています。最終的な到達点は同じでも、人それぞれの歩みが尊重されるわけです。

――精神的な成長または進化が、人類の目覚めへの道筋です。それは「天の父」によって、皆さんが「彼からの分離という非現実」を選択した瞬間に決められたものです。

――あなたは永遠に神と一体だから、あなたが目覚めて永遠の歓喜を生きることは不可避の定めです、あなたの慈愛あふれる「父」がそのようにあなたを創られたからです。

――愛は、あなたが何を選んでもそれを尊重し、あなたが心から目覚めを選ぶ瞬間が来るまで、はかり知れない忍耐を持って待つのです。そして、その瞬間の到来とそれを正しく評価することは、遅かれ早かれ誰もが選び取ります。


サナンダのメッセージ

精神的な成長または進化が、人類の目覚めへの道筋です。それは「天の父」によって、皆さんが「彼からの分離という非現実」を選択した瞬間に決められたものです。そもそも「分離という状態」は実際には存在せず、それを皆さんが選択したとき一瞬だけ心に浮かんだ、常軌を逸した想像上のアイデアつまり虚構に過ぎません。ところが、皆さんが分離というアイデアを感じて生きることを可能にしようとして、虜(とりこ)になっていしまった深い眠りから何とか目覚めようとしているこの時点では、その虚構が極度に現実的に見えるのではないでしょうか。

あなたは永遠に神と一体だから、あなたが目覚めて永遠の歓喜を生きることは不可避の定めです、あなたの慈愛あふれる「父」がそのようにあなたを創られたからです。しかし、前にもお話ししたように、愛は決して無理強いをせず、ただ受容れ認めるだけです。愛は、あなたが何を選んでもそれを尊重し、あなたが心から目覚めを選ぶ瞬間が来るまで、はかり知れない忍耐を持って待つのです。そして、その瞬間の到来とそれを正しく評価することは、遅かれ早かれ誰もが選び取ります。何故なら、現に進行している分離の体験は、たとえ「非現実」であるとしても忍耐の限界を超えているからです。

誰もが内心の深い部分では、人間としての人生は一時的で非現実的な体験だという認識があり、それが心の平穏を乱し、注意を引き、探求を求めさせます。人生のどこかの段階で、人生の意味について深く思案したことのない人は一人もいないでしょう。そこから、人生には、人間としての単なるサバイバルよりも、遥かに深い意味があるはずだという強烈な実感へつながります。そしてもちろん、それはあります。

よく見られる状況は、人が自分自身の人間的知性を遥かに超えた精神的知性が存在するに違いない、という内心の認識を直感的に捉え、それに心を許そうとすると、エゴが登場して本人にささやくのです。――それを認めるのは結構だが、それをもっと深く考える時間が持てる時まで、脇に置いておくのがいいと。人間体験が非常にリアルに見えるので、これには説得力があります。すると人生の当面の課題や気晴らし事が、主要な関心事として「正当な」位置を、再び引き受けるのです。そして、スピリチュアルな遺産または身元を探求する可能性は、直感のひらめきが起こる次の機会まで、遅らせられるか忘れられてしまいます。

次の機会が消えて無くなることはありません。あなたが目覚めることは、本当に神の意思であり、集合としての人類の意思だからです。あなたが実際に目覚めるまで、私たち精神界の者たち全員から定期的に「軽い肘突き」を受けるでしょう。「そうする時ですよ」と。あなたは彼らの存在を自覚するようになり、しかるべく対応するでしょう。・・・あなたが、準備ができていると感じる時に。用意ができているという感覚は、各個人の目覚めの過程での本質的側面です。というのは、愛の本来の性質として、あなたには自由意思があり、決して目覚めを強要されることはないからです。それでもあなたは、継続的に一連の「軽い肘突き」を受けるか、それらの直感的に理解できる「軽い肘突き」に、あなたが気づくのをサポートするように特別に考案された出来事または学びを体験するでしょう。それらは、あなたの目覚めへの道案内なのです。

そしてあなたの準備が整えば光が射してくるでしょう。つまり、惑星地球で人間として生きることについて意味を持つ唯一の理由は、「永遠のスピリチュアルな故郷」である「現実」へ帰還する道を見つけることだと、あなたは遂に気づくでしょう。そこでは、あなたは永遠に「根源の意識」つまり「至高で無限の叡智」――人類の用語で「母なる、父なる神」と最高の幸福感をもって呼ばれる存在――と一体なのです。

しかし、これは覚えておいてください。言葉というものは非常に限定された不適切なコミュニケーションの概念で、しばしば皆さんを互いに敵対する戦闘集団に分裂させ、それが衝突や痛みや苦難をもたらす可能性があり、また実際にそれが起こっていることです。

他の人たちに耳を傾ける時は、いきなり彼らが言おうとしていることは「もう知っている」と速断しないで、努めて「聴く」ようにするのを忘れないことです。言われたことを「聴く」のを怠ったばかりに、または聴いたとしても言われた言葉の意味を完全に取り違えたために、とんでもない誤解が生じることは少なくありません。同じ言葉が、皆さん一人ひとりにとって違う意味を持つ可能性があり、実際にそうなることは珍しくありません。それが起こる理由の一部は、皆さんが非常に限られた語彙によって表現しようとすることに付随して、様々に異なる思いを持つこと。また他には、言葉に常に伴う身振りに色々の違いがあるためです。

相手が誰であっても人の話を聴くときは、あなたの心によって聴くようにすることです、知力によってではなく。そのわけは前者が、相手が伝えたいと思うことに完全に合致する強力なエネルギー場を生み出すのに対して、知力は、聴いた言葉を論理的に理屈づけられる概念に解読または解釈しようとするので、実際に伝えようとされた心からの意味が理解され把握されることが決してないからです。

そしてもちろん私は、皆さんが日々に内心に分け入り、魂の奥底で燃え続けている「神の愛の光」に会いに行くようにされることを強調します。そうすれば、どんな形の他者との交流であっても、いつも愛を根底に持って交わるようにすることを思い起こすでしょう。

皆さんの一人ひとりが「根源」と一体なので、実際のところ、あらゆる他者との交流は、あなた自身の別の側面との交流に過ぎないのです。したがって、他者を愛することは自分自身を敬愛するのと同じで、自分自身を愛することは他者を敬愛することになります。自己や他者を批判したり非難したりする間違いを犯したことに気づいたら、ただちに赦しを請うようにすることです。というのは本当のところ、すべての過ちは「幻想」の別の側面で、完全に「非現実」だからです。そして赦しを請うことは、「幻想」が、あなたに押し付けようとしている罪悪感からの解放に過ぎません。その押し付けは、「永遠の価値を持つ神聖な存在」としての、あなたの本質を忘れさせる、または気づかないままにしておくという、あなたを侮辱する正当性を欠いた試みなのです。

親愛なる皆さんの

サナンダ(ジーザス・クライスト)


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